どんぐりの森CDメイキング-2


プロローグ
その出会いは「伊那養護学校にギター一本もって演奏にきてくれ」と、私の自然の先生でもある白鳥さんから声をかけられた事に始まりました。
私が故郷に住んでいた時でさえ学校の所在地すら知りませんでしたから、1997年から僕と伊那養護学校タイコクラブ舎子太鼓とのつき合いが始まったのは不思議なご縁です。

今回の主人公のけいた君はその舎子太鼓の中にいた、太鼓の大好きな少年でした。
彼は「舎子太鼓」という学校の寄宿舎の子供達で構成される太鼓のグループに在籍し、すごく元気な子供で、若くて体力のある先生じゃないと手に負えないくらいの元気者です。
自転車が大好きで、ブレーキをかけずに実家の急坂を川のたもとまで一気に下り、周りの人々を冷や冷やさせていました。そして特にお年寄りとは仲が良く、とても心の優しい子供だったそうで、舎子太鼓にあっても一生懸命練習していたそうです。
たまたま私のCD「西へ」の「故郷に帰りたい」が特にお気に入りで、聞きながらよく眠っていたそうです。

そんなケイタ君は機械をいじるのが大好きで、特にラジカセはいじり倒して10台以上買い換えるハメなったとか、そんな機械好きなケイタ君がある機械をいじっているうちに、事故で亡くなってしまいました。
ご両親の嘆きはいかほどであったか・・僕には想像もできません。
そしてケイタ君が生前大好きだった舎子太鼓クラブに太鼓を寄付する事になったのだそうです。
そんな時、ある人から「太鼓に書かれた名前は残るけれど、それより生徒達がづっと演奏できる曲をプレゼントしたらどうか」という話があって、今まで関わってきた私、天山に頼む事になったそうです。

実はこの私、このお話を最初に頼まれた時には、お受けするか悩みました。責任の重さと他の太鼓に精通してる方のほうが良いと思われたので、すぐに返事はできなかった記憶があります。
しかし、私は舎子太鼓の子供達といっしょにパラリンピックに出た仲間なのだから、これは僕をおいて他にいない。そんな風にも思えたので、お受けする事にしました。
さて、音楽はどうしよう。実際レクイエムになってしまうのか・・そんな事したらもっとその曲を聞いて悲しんでしまう人がいるだろうし、結局答えが出ぬまま、とにかく御両親に会って、それから考えても遅くはないと思い、行動を起こす事にしました。
ケイタ君の家へ着くとさすがにご家族の皆様は深い悲しみの底にいます。こんなところへ僕がノコノコ来てしまって良かったのだろうか?本当の事を言うと逃げたい気持ちもあったと思います。
最初はどんな曲を作って良いのか、本当にさっぱり分からなかったのです。
ところが、注意深くご両親のお話を聞くうちに、上記のケイタ君の生き様が私に伝わって来たのです。
この時、ご両親の口を伝ってケイタ君が僕にメッセージをくれたような、そんな気がしました。

その後、当時の伊那養護学校の校長先生のご厚意で、「養護学校のすべてを見てほしい」と声をかけて頂き、僕は養護学校へと出かけて行きました。
訪問すると、パラリンピックでいっしょに演奏してくれた子供達がみんな声をかけてきてました。
中にはスーット滑ってきて僕の目の前で止まり「今ドラムをやってる○○でーす!」と元気な声。
その後また一人滑って来てさっきの彼の横で止まり「ドラム二号でーす」と言うとまたもう一人「ドラム三号でーす」と来てくれました。本当に楽しい子供達です。その後、そんな元気な子供達のいる教室を過ぎ去り、パラリンピックでお世話になった先生が「こちらも見て下さい」と奥の方に通してくださいました。
行ってみるとそこは、さっきとはうって変わって静かな教室の真ん中に子供が二人寝ていました。
先生と雑談をしてると子供が一人起きたので、先生があやしています。年は4〜5才でしょうか、この子供達は「あー」というだけでしゃべりません。重度の障害をもっている子供なのだそうです。子供が「あー」というと、先生が「今日は機嫌がいいねぇ〜」って話しかけていました。僕もその子の横に行きづっと目を見つめていると、今まで見た事のないような澄み切った目に驚きました。吸い込まれそうな、愛くるしくてとても目の可愛い子供達でした。
ところが、この子供は重筋力無力症という病気で、来年生きる事ができるのかどうか分からないのだと、先生から聞き、僕は絶句してしまいました。その時僕はどんな言葉も言えなくなった記憶があります。
校長先生からは「すべてを見た上で曲を書いてほしい」との事でしたが、自分の胸が押しつぶされて行くのを感じたし、いったいこの何を表現して良いのか、改めて深く考えてしまいました。
また、パラリンピックのあった年に亡くなってしまったのはケイタ君だけではない事を知り、これが日常の事なのだと初めて知りました。結局この後、作り始めるまでに長い時間が必要となっていしまいましたが、養護学校の事を知る事ができて本当に良かったと思います。知るのは勇気も要りますが、何も見ない自分はもっと恥ずかしいと思います。本当の事、真実っていうのは避けてはいけないのだと自分に言い聞かせつつ、受けてしまったからには自分ができる限りの事をやるべきだと思い、作曲を始めました。
時間が立てば立つほど、僕の頭の中は可愛い子供達の表情でいっぱいとなり、その事がある方向性を自分の中に作り上げたようでした。

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